戦中・戦後の追憶集
 今日は「立秋」。暦の上では今日から秋でございます。

 本日町内老人クラブ「あけぼの会」編集による戦中戦後の追憶集「68回目の終戦記念日を迎えて」が発刊になりました。
 主として77歳以上の会員18名による思い出の記でありますがその中に私の一編も含まれていますのでここに転載しておきたいと思います。

 敗戦・そして台湾引き揚げ
 忘れもしません。国民学校5年生の時、台湾・嘉義市郊外の学童集団疎開の地で昭和20年8月15日を迎えたのであります。
 玉音放送があった直後、先生から「悔しいけど日本は負けた。君たちが大きくなってから必ず仇を討ってもらいたい」と涙ながらに言われたことをはっきりと覚えています。悔しさのため涙がとめどなく流れました。
 一週間ほど前、落花生畑で作業中に、突然米機グラマンの機銃掃射に会い、友人の姉が背中を撃ち抜かれて亡くなったことがあり、その時は敵愾心に燃えていたのであります。しかし、ほどなく敗戦の現実に直面し、その気持ちも次第に薄れてしまいました。
 父の仕事の関係から、本土への引き上げは民間人で最も早く、翌年2月下旬でした。しかし、荷物は一人で持てるだけに制限されたのであります。急遽、母が大きな袋を作成し、それに身の回りのものを詰め込み、両親と祖母と4人でそれを一つずつ背負って帰ってまいりました。引き揚げ船は米軍の小さな輸送船で台北の基隆港を出港し、どうしたことか門司港には入港せず、激しい船酔いにほんろうされながら、およそ1週間程を要して和歌山県の田辺港に到着したのであります。
 上陸できたのは2月28日でした。そこで、大変な目にあいました。全員が頭の天辺からパンツの中まで殺虫剤のDDTをぶっかけられ全身が真っ白になったのであります。
 田辺港から引き揚げ列車に乗せられ、途中で広島駅を通過いたしました。原爆投下のため見渡す限り一面の焼け野原です。愕然といたしました。この時、日本が破れたことをひしひしと感じたのであります。20年間は草木も生えぬらしいと聞いたことには胸が塞がる思いをいたしました。
 熊本駅到着し、三角線に乗り換えて驚いたことは何と、貨物列車だったことです。トンネル通過の際には真っ暗で、機関車の煤煙が舞い込みとても不安だったことを思い出します。
 疲労困憊しながらやっとのことで父母の郷里に到着したのですが、祖母は動けぬほ衰弱しておりリヤカーに乗せられて伯母の家に辿り着いたのであります。しかし、無理が祟ったのでしょう。5月に他界してしまいました。
 以上、戦後の台湾引き揚げについて簡単に述べてみましたが、大陸から命がけで帰還した方々と比べると雲泥の差があり、苦労は致しましたが、幸せな方だったと思います。
 あれから68年の歳月が流れましたv。
 戦後の混乱期を何とか乗り越え、平和の意味を噛みしめながら今日を迎えています。

by bukkin | 2013-08-07 18:27 | 思考・愚考


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