心頭を滅却すれば
 連日暑い日が続いています。こんなに暑いと、つい他の方はどう思っているのだろうかと気になります。

 昨日の熊日「読書のひろば」のテーマ特集『暑さ対策』に目が留まりました。
その中の文章が気になりましたので一言述べて見たいと思います。

 『「心頭滅却」で乗り切りたい』と言う表題で熊本市の主婦の方が投稿されていますが、その文の中に「心頭を滅却すれば火もまた涼し。私はこの経文が好きだ。」という下りがあります。

 その後、「炎暑の夏の不快指数の中で、私はひたすらこの経文を唱える。」という箇所がありました。

 この方の投稿は素晴らしい文章です。しかし経文という思い込みによる間違いがあります。熊日読者のひろば係りの方は、何故この箇所を見逃したのでしょうか?読者のひろばの担当は文章に関してはプロのはずです。



 どうして経文を「格言」「金言」または単なる「文言」と校正して掲載されなかったのでしょうか?もしそれを見逃したとしたら由々しいことです。何故なら投稿者に恥をかかせると同時に読者に誤った知識を注入する事になるからであります。

 投稿された方は快川禅師のことを知っておられたのでしょう。ですからこの言葉を経文と勘違いされたと思います。 投稿者にはまったく責任はありません。誰にだって思い込みや勘違いはあるものです。それをチエックもしないで掲載した読書のひろば係りはどのようなプロとしての知識を持っているのか疑問であります。

 私の記憶では「心頭を・・・・」の文言は、恵林寺が天正10年(1582)に織田信長軍の兵火に遭い、灰燼に帰した際に快川禅師が山門の上に端座し、燃え上がる火中にありながら微動だにせず、

「安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」
(安禅不必須山水 滅却心頭火自涼)

と唱えて壮絶な死に臨んだと言うことです。

 経文ではないことは確かなのです。インターネットで確かめてみましたところその原典が分りました。

 これは、ことわざでも、禅問答でもなく、次の漢詩から来ているようです。

 夏日題悟空上人院

  杜旬鶴(唐後期の詩人)

三伏閉門披一衲
兼無松竹陰房廊
安禅不必須山水
滅却心頭火亦涼

夏日、悟空上人の院にて題す

三伏門を閉ざして一衲を披く
兼ねて松竹の房廊を陰らす無し
安禅は必ずしも山水を須いず
心頭を滅却すれば火も亦た涼し

 「安らかな禅には、必ずしも山水が必要ではない
心と頭を無くし去ってしまえば、火ですら涼しいものだ」

 快川禅師は死に臨んでこの漢詩をこの世の別れに叫んだのであります。驚くべき胆力です。あまりにも有名なため快川禅師の言葉として記憶されていますが原典は別にあったのでございます。
 
 以上ですが、このことで思い込みの恐ろしさ、言葉遣いの難しさを感じたことがありますので一言付け加えたいと思います。

 「他山の石」という格言のことですが、これを「対岸の火事」と間違って使う方をよく見かけます。

 何かの例を引いて「これを他山の石としてはならない・・・」という表現をする方がありますが、「これを対岸の火事としてはならない・・・」の間違いなのです。

 他山の石とは、広辞苑によれば「他山の石を以って玉を攻むべし」
(よその山から出た粗悪な石でも、自分の宝石を磨く役には立つという意から)自分より劣っている人の言行も自分の知識を磨く助けとすることができる。という意味なのです。

 故事やことわざ、または慣用句を引用する時は慎重にしなければなりません。
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by bukkin | 2006-08-12 18:17 | 思考・愚考


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